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エポペ・クリスマス説教 2015 (オリビエ・シェガレ神父)
2016-03-03-Thu  CATEGORY: キリスト教

 今年私は47回目の日本のクリスマスを迎えています。昔に比べて最近のクリスマスはやや変わっていて、少々控えめになったかなと感じます。電気の節約のために、イルミネーションが減ったというためだけではないようです。日本国民の一般の人にとって、クリスマスそのものの新鮮味が薄くなってきたからかも知れません。

 町にはサンタクロースが増えすぎて、子供でさえ関心がなくなったようです。今日はあるデパートの入り口の前で、サンタクロースの格好をしている犬を見かけました。Christmasは人間だけではなく、動物の祭りに広がりつつあります! イエスが生まれた馬小屋には、牛やロバや羊、動物がたくさんいたので犬のサンタクロースがいてもいいではないかと思いました。

 Christmasの過ごし方も変わってきました。最近の調査によれば昔のクリスマスの時には旅行をしたり、レストランに出かけたりするなど、外出をすることが多かったそうですが、今は家で家族と一緒に過ごして楽しむ人が多くなったのだそうです。家族回帰という傾向のしるしの一つでしょう。Christmasを静かに過ごすことはChristmasらしい過ごし方で、いい現象だと思います。Christmasは昔ほど派手ではなく変わったとしてもその人気が衰えず、教会に所属する人の祭りだけではなく、その喜びが全世界の人々や生き物に共有されているのは、本当に嬉しいことだと感じまします。

 エポペとつながる私たちはネラン神父のはじめた習慣を引き継ぎ、街のレストランに集まり、クリスマスをお祝いしています。ネラン神父の考えでは、キリスト教が知られていない日本の社会の中にあって、敷居が高い教会のお御堂よりも一般大衆の中でクリスマスをお祝いするのがふさわしく、福音宣教の場ともなるという考えでした。今日、私たちの目的はご馳走をたらふく食べることだけではなく、クリスマスのミサやその後の食事を通して交流をしながらイエスの誕生の喜びを分かち合うことです。

 私たちにとってChristmasは気分やムードだけでもなく、クリスマスの物語の甘い夢、おとぎ話、子供向きの童話のようなものでもありません。クリスマスを通して大事なメッセージが私たちに向けられています。それは神が私たちの歴史に関わり、私たちの生活、家庭、職場、地域社会にお入りになり、人間の喜びや悲しみを背負い、私たちと共におられるということです。

 今晩私たちはこのメッセージの光に照らし合わせて、今年の出来事を思い出しながら世界の様々な現実を振り返ることにしたいと思います。その中にローマで開催されたシノドスのテーマとなった現代の家庭の現実が浮かび上がってきます。先ほどの聖書朗読の箇所から、イエスの家庭に起こった具体的な出来事を聞きました。イエスのご両親、ヨセフとマリア、このお二人は人形ではなくリアルなお父さんとお母さんでした。全てのお父さんとお母さんのように一人の赤ん坊の命の誕生を喜んで迎え入れ、大事に守ろうとしていました。

 しかし、宿の部屋が断られたり、生まれた直後に迫害を逃れてエジプトという遠い国に避難したりしなければなりませんでした。正式に結婚していなかったヨセフとマリアの家庭はさまざまな差別を受けながら、自分の子はどうなるか、この子の上にある神の計画はなかなか理解できませんでした。イエスが生まれて2000年が経った今年も色々な危機にさらされている家庭の姿が浮かんできます。シリアから逃げて長い旅を強いられていて、家がなく彷徨っている難民の家庭。さまざまな分裂や離婚などのために壊れて増加する、いわゆる再構成家庭、親と一緒に住めない子供の家庭など。

 教皇フランシスコはこのような家庭を差別の目で見るのではなく、私たちが家庭の苦しみをもっと温かく顧みて、受け入れる必要性を唱えました。今晩、明日の事はよく見えてこない多くの親は、Christmasの慰めを感じて、マリアとヨセフのように信仰の恵みが与えられて、神様のみ旨を受け取り、家庭の行方を神様に委ねて、救いを感じ取ることができますように祈りたいと思います。

 クリスマスはマリアとヨセフだけではありません。周りに野宿して番をする羊飼いの姿も私たちの目に浮かんでいます。彼らは決しておとぎ話の人物ではありません。当時、彼らはユダヤ人社会から差別され、生活の安定がなく、最も貧しい人々で、神に頼る以外に生きる方法がありませんでした。財産も立場もない彼らは、一番早めに主の誕生に気がついて、飼い葉桶で生まれた救い主を迎えています。彼らの姿を通して、格差社会に取り残されていて、仕事の安定も生活の保証もないホームレスの方々、あるいは大勢の不定期労働の若者たちの姿が浮かんできます。三年前を思い出しますが、東日本大震災が起こり、私が釜石で支援の拠点作りに協力した時に、一番早くボランテイアの募集に応じたのはこうした若者でした。

 救い主のイエスが、もしも2000年前のイスラエルという国ではなく、今日の東京にお生まれになっていたなら、どういうことになったでしょうか。想像ですが、年の瀬で、東京のホテルが満杯で部屋を取れないため、ヨゼフは大工の仕事の関係を通じて、仲間から寄せ場を紹介してもらって、マリアを山谷に連れていき、イエスは路上で生まれたと仮定します。きっとそこに野宿しているホームレスのおじさんたちは、大喜びでイエスの誕生をお祝いしたのではなかったかと思います。そしてクリスマスの祭りで忙しい教会の私たちは、この子の誕生に気づいていなかったということかもしれません。

 そうです。イエスの誕生という出来事と関係している人物は決してフィクションの人物ではありません。出来事の背景にローマ帝国軍の侵略、子供の虐殺を命令し、テロ行為を繰り返すヘロデ王の姿があります。彼らの動きを通して今日の帝国の支配、世界中起こっているテロ事件の現実が目に浮かんでくるものです。紛争やテロの犠牲となる多数の難民、独裁者政権の弾圧を受ける民衆の姿などが浮かんできます。

 それと同時に暴力や戦争に反対し、平和の憲法を守ろうとする日本市民の平和への訴えが聞こえてくるような気がします。今日、天使たちは「神の心にかなう善意を持っている人々に平和」と唱えています! 

 今年は戦後70年を振り返って、1年間ほど平和のことについて反省が行われ、憲法の9条を守ろうとする声が全国中で湧き上がっていました。今再びテロが広がり、セキュリティの名の下に多くの国が国境を閉ざし、武装化を高めていこうとしています。こんな時だからこそ、きょう誕生する無防備の幼い子がもたらす平和を受け入れ、互いにゆるし合い、互いに支え合い、心が一つとなることを祈りたいと思います。

(オリビエ・シェガレ神父 パリミッション日本管区管区長 2015年12月23日)

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救いとは何でしょうか?――クリスマスの本当の意味
2014-12-26-Fri  CATEGORY: キリスト教


 クリスマスおめでとうございます。おかげさまをもちまして、第35回エポペ・チャリティクリスマス記念ミサ&パーティも無事に終えることができました。今回も司式していただいたオリビエ・シェガレ師は、東京の信濃町駅すぐそばにある真生会館(学習センター・カトリック学生センター)の館長でありながら、パリ外国宣教会日本管区長の重責も担われておられます。この場をお借りしまして改めて深く御礼申し上げます。 

以下に説教の全文を掲載させていただきます。

<第35回エポペチャリティクリスマス記念ミサ 説教>

 今年は渋谷に溢れる群衆の中に、2000年前に起きた出来事、イエスの誕生を記念しています。だれでもよく知っているこの物語をさきほど聞きました。

 貧しい家に一人の赤ちゃんが生まれ、旅先のことで、お母さんは酷く疲れていました。宿の予約を取れず、赤ちゃんを馬小屋の飼い葉桶に寝かせました。東京の山谷辺りにでも起こり得るような小さな事件でした。羊飼いのほかには誰も気付いていなかったこの出来事は、救いの歴史を開く初めてのクリスマスとなったわけです。

 あの頃は、サンタクロースも、クリスマスケーキも、クリスマスのイルミネーションもありませんでした。何もなかったけれども、新しい命を受け入れる家庭の温かさ、いたわり合う家族関係、愛情に満ちた環境が整っていました。神の子はこうした信頼や愛が溢れる素朴な環境の中で沈黙の夜に生まれ、人間となられて、矛盾や傷の多い私たちの現実の中にお入りになっています。貧しかったが、新しい命を迎え入れたマリアとヨセフの喜びは、どれほど大きかったか想像できます。一人の子供が生まれる時のすべての母さんや、お父さんの喜びです。

 一年前、日本のクリスマスに関する調査が行なわれたが、クリスマスについてどんなイメージを持っていますかという質問に対して最も多くの人は家族と一緒に過ごすことだと答え、次はイルミネーション、そしてケーキ、恋人、プレゼント、最後にエネルギーの無駄と答えた人もいますが、イエスの誕生に触れる答えは一切出ませんでした。

 私の国フランスでは同じ質問に対してやはり家族がトップとなり、次はプレセント、御馳走、買い物で、イエスの誕生と答えた人は14%だけで、最後には「しんどい」という答えがありました。

 今、日本とフランスだけではなく、世界の人々が持っているクリスマスの一番強いイメージは家族ですが、これは意味深いことです。それほど家族は現代人にとって、ほっとできる癒しの場、心を暖める場、救いの場であることがわかります。元々宗教的な行事であるクリスマスの世俗化は確かに問題ですが、それでもクリスマスをきっかけに皆が家族のことを思うのは、すばらしいことではないでしょうか、こうした世界の人々の期待を受けとめていながら、救い主の誕生というクリスマスの本来の意味をどう伝えたらいいかというテーマは私たちの課題でしょう。

 クリスマスの意味を伝えるために、渋谷駅の出口にスピカーから流れている説教も抽象的な理屈もあまり助けにならないような気がします。私としてはいつもクリスマスの意味を考える時、電車の中の一つの思い出が心に浮かんできます。私はなるべくなら自転車を使って電車にほとんど乗ることはありませんが、ある時、雨の日で、山手線の電車に乗っていました。クリスマスが近づいて、ラッシュアワー直前の夕方5時ごろでした。電車はそれほど混んでいなかったのですが、席は空いていませんでした。電車に乗っていたのは買い物の主婦やサラリーマンやスマートホンに熱中な若者でした。

 ある駅で、赤ん坊を抱えている若いお母さんが乗ってきました。さっと一人の男性が席を譲ってくれました。若いお母さんは嬉しそうににっこり笑って、お礼を言って座りました。電車に一緒に乗っていた私と他の乗客はこの光景を見て何となくホットした気持ちになりました。赤ちゃんを抱えていた女性の右に一人の中年の男性が座っていました。この男性はいかに生真面目そうに見え、真正面を見つめていました。しばらくすると赤ちゃんはその男性の方へ身を乗り出すような格好で「バブバブ」とわけの分からないことを喋りながら、男性の肩をたたき始めました。男の人が思いがけず微笑みを浮かべ、赤ちゃんの手を撫で始めました。

 この微笑ましい光景を見て、乗客は知らないうちに表情が和み、何となく嬉しい気持ちになり、若者でさえスマートホンを忘れ、目を上げていました。身を守るすべもなく、大人を信頼しきっている赤ちゃんを見ていて、皆の緊張が解かれ、幼子のような心にもどったかのように見えました。言葉がなかったが、互いの心が開き合うような、親近感というか、一瞬のコミュニョンが生まれたような気がして、電車の中に真のクリスマスがやってきたと思いました。一人の赤ちゃんの登場のおかげで、今まで無視し合っていた人の間に、心のつながりが生まれ出て、通じ合うようになり、連帯感が生まれていました。一瞬、救いがここに訪れたという実感を持ちました。

 救いとは何でしょうか。多分、一番多くの人が信じている救い主は、神様よりも繁栄を守る強い経済、安全を保証する強い国家、万能を約束する科学技術であります。

 もちろんしっかりした経済、政治、科学の進歩は大切なものです。しかしそれだけでは人間が救われることでしょうか。偶像崇拝の対象となった時の経済は社会格差の原因となり、力に頼る政治は弾圧と差別の道具となり、限界を知らない科学は原発事故が示したように環境破壊につながり、地球の命を脅かすものとなります。

 クリスマスに見られる救いとは、人の心を縛り付けているエゴイズムからの解放、皆が互いに譲り合い、平和を味わい、兄弟姉妹のようにつながり、愛を感じている状態です。これはどうしても、この世のものが約束できる救いではありません。

 この救いは、決っして遠い理想、来世だけに約束されるものではありません。救いは私たちのこの現実に始まるものです。神は私たちの現実にお入りになり、無防備のままに生まれ、共に歩んで下さる方です。クリスマスに生まれる救い主は、富を増やすような救い主でもなく、人々が期待するような敵を打ち破るような権力者でもなく、万能を約束する学者のような救い主でもなく、弱い赤ちゃんの姿をもって現れ出てくる神の子です。

 強さの中ではなく、弱さの中に主なる神の「救い」の働きが私たちの現実に隠されています。探せば見い出します。今日、クリスマスを祝う世界の人々が、こうした救い主を迎え入れて、武器を捨てて、心が和み、競争のストレスから解放され、平和を楽しみ、贈り物を交換しながら、互いの心を開き合い、真の喜びを味わえるように祈りたいと思います。

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「皇帝のものは皇帝へ」(オリビエ・シェガレ師説教)
2014-10-23-Thu  CATEGORY: キリスト教


皆さまお元気ですか。
 先日のオリビエ・シェガレ師(パリミッション日本管区長)の説教を、ご許可をいただいて掲載させていただきます。それでは今月最終土曜日(2014年10月25日)のエポペの集いでもお会いいたしましょう!

「皇帝のものは皇帝へ」(A年 年間第29主日 マタイ22・15-21 )

 今日の福音のテーマは私たちにとって身近な税金の問題と関係があるものです。どの国でも税金を払うのは国民の皆さんなので、税金は誰の懐に入るか、誰のために使われるか、当然皆がそれに関心を持ち、ちゃんとチェックする義務もあります。税制は国によって仕組みが違いますが、民主主義の場合は納められた税金は社会保障や学校と施設、道路の建設のために使われるはずなので、給料から天引きされるのはいやだと思っても、共通善のためなら納得して納めます。しかし独裁体制、あるいは植民地制のもとにある国の場合は、人々から取られた税は、独裁者や彼を支えている少数エリートの懐に入り、国民全体の利益にならず、税金を拒否するという過激的な立場を取る人が出てきます。

 ローマの植民地制のもとにあったイエスの国はこのケースに当たりました。人から納められていた税金の大部分は国を占領していたローマ皇帝をはじめ、ヘロデ王のようなローマ帝国に協力していたユダヤ国のエリートに流用されていました。ゼロタイ(熱心党)という過激活動家の一部の人が抗議のしるしとして税金を拒否し、テロ行為を続けていました。しかしローマ人はユダヤ社会の構造そのままの存続をゆるし、国のために学校や道路を作り、良いこともしていたのは否定できませんでした。その理由で、税金を払ってもいいではないかとローマ軍を歓迎していたサドカイ派の人々がいました。また政治のこととの関わりを避け、立場をはっきり取らない敬虔なファリサイ派の人々がいました。

 今日の福音に登場する彼らは、罪人(つみびと)とレッテルを貼られていた貧しい人々の側に立つイエスのところに来て、人々の間に争いの種となる税金の問題を取りあげて、罠にかけようとします。もしイエスは税金を納めてはいけないというなら、税金を拒否するゼロタイ側の立場を取る者として、テロリストと見なされてしまいます。逆に税金を払ってもいいというサドカイ人の立場を取るなら、イエスはコラボ、つまり国の敵と協力している者と見なされます。罠をかけられ追い詰められたイエスの対応は皆さんがご存知です。デナリオンを持って下さいと。一万円札に福沢諭吉の肖像が印刷されているように、デナリオンの銀貨にローマ皇帝の肖像と銘が刻まれていました。神として崇拝されていた皇帝の像は、当時人々の心の動きをコントロールしようとする絶対的な国家権力のシンボルとなっていて、信仰の立場からすると偶像の一つでした。

 イエスの言葉は有名です。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」。教会の中ではこの言葉について、様々な解釈が出ています。その一つで教会は政治と関わってはいけないというものがあります。これは政教分離という意味でとらえれば問題はありません。近代になって教会は、世俗社会をはじめ政治の自律を認めているからです。しかし教会は神の姿である人間の尊重、命の大切さ、侵してはならない良心の尊さといった、福音だけでなく、人類の知恵に根ざす原理を持っており、それを国に向かって訴えるのは、国の政策への介入ではありません。

 また信者は一人一人の市民として、声を上げることによって国の政策に影響を及ぼし、政党を支持し、選挙に参加し、政治活動に積極的に関わってもいいことだとされています。むしろ、いいだけではなく、関わるべき責任があると思います。しかし教会は、教会として特定の政党への支持、政治的発言したりしてはなりません。逆に国家の役割は国を守り、経済、文化、教育など促進することにありますが、国家は、宗教の教えや信仰の事柄に干渉してはいけないし、信教の自由を尊重すべきです。もしも国家が議会に与えられた権限を悪用するならば、教会はそれに抗議してもいいのです。国家権力は偶像であってはならない。国家は国民のためにあるのであって、人々は国家のためにある訳ではありません。神に所属する人々の心を支配し、良心を負かすことはできません、抑圧の道具となってはいけまあせん。今日の福音は現代の私たちに向かってこのメッセージをはっきりと伝えています。

 このメッセージを受けて、教会は昔から、国家権力の野望から人を守ってきました。日本の教会もそうです。福音のメッセージを受けて命を捧げた殉教者は沢山います。明治維新後日本に来た宣教たちは信仰を否定する幕府の暴力的政策からキリスタンを守り、国家とぶつかって多くの信者が殉教しました。現代でも教会は皇帝の像のような国家権力のシンボルに警戒を呼びかけ、人間を守る正義と平和の道を唱えています。人は皇帝のために生きるのではなく、神の教えと兄弟のために生きているということはもう一度今日の福音を通して確認していきたいと思います。どうか私たちは、戦争がやまない複雑な世界の中で、抽象的な原理だけではなく、温かい知恵によって、具体的な平和の道具となれますように、祈りたいと思います。

 (オリビエ・シェガレ師説教「年間第29主日A年」2014年10月19日・東京カテドラル聖マリア大聖堂)

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日本のクリスマス、人気の秘訣は一体どこに? (シェガレ神父説教)
2013-12-24-Tue  CATEGORY: キリスト教

 クリスマスおめでとうございます。おかげさまをもちまして、第34回エポペ・チャリティクリスマス記念ミサ&パーティも無事に終えることができました。キリスト者ではない方々も大勢来てくださり、福音(よい知らせ)を伝えるエポペの使命を今年もなんとか果たすことができました。

 今回も司式していただいたオリビエ・シェガレ師は、東京の信濃町駅すぐそばにある真生会館(学習センター・カトリック学生センター)の館長でありながら、パリ外国宣教会日本管区長の重責も担われ、毎日曜日にはカトリック高円寺教会(東京教区・主任司祭 吉池好高師)の協力司祭としても働いておられます。この場をお借りしまして改めて深く御礼申し上げます。

 ちなみに今晩12月24日、高円寺教会で行われる「主の降誕(夜半のミサ)」でも共同司式をなさいますので、お話しをなさってみたい方はお気軽にぜひお越しください(やさしい吉池神父さまも安心して訪ねてみてください…)。

 以下にミサでのシェガレ師の説教を掲載させていただきます。ご参加ご協力、そして遠くからお祈りいただいた皆さますべてに深く感謝いたします。皆さま、どうぞ素敵なクリスマスをお迎えください!


<エポペ・クリスマス記念ミサ2013  オリビエ・シェガレ師説教(全文)>

 今年もクリスマスを皆でお祝いしています。キリスト教国ではないこの日本の、イエスがほぼ不在のままのクリスマスなのに、その絶えることのない人気の秘訣は一体どこにあるのかと、いつも疑問に思います。
 
 人類学の視点から、日本人はお祭りが好きだからという説が出るかもしれません。日本人は宗教の内容とはあまり関係なく、何であれ、お祭りの気分を味わいたがり、日常の煩わしさを忘れ、皆と一緒の一体感を楽しみたいと。
 
 しかしクリスマスの人気を支えているのは、それだけではないでしょう。皆は、疲れ果てている競争の激しい見栄の張る社会の中にあって、クリスマスの馬小屋にある飾り気のない素朴な環境、そこに溢れる家族の愛情の豊かさ、その優しさと平和の雰囲気に心が捉えられているのでしょう。
 
 物質的な繁栄だけに満たされ得ない現代の人々は、一人の小さい命の誕生を迎えている、貧しい羊飼いの心の豊かさや純粋な歓びに、心が動かされているに違いありません。
 
 多くの人は、クリスマスを通して、イエスの出来事そのものを祝うよりも、2000年の間に形成されたクリスマス文化の温かさを求めているのでしょう。その意味でのクリスマスは物足りないという批判もありますが、私としては、クリスマスがキリスト教を知らない人を含めて、全人類が共有できるような文化になったことを喜ぶべきだと思います。
 
 この文化は豊かな象徴力をもち、生命のたくましさを感じさせるもみの木、永遠の光りへの憧れを呼び覚ます星、故郷の温かさを思い出させる素朴な馬小屋、人の心に歓びを呼び起こすようなあどけないキャロル、それらのものに生かされています。

 こうしたクリスマスの文化の担い手は、インテリや指導的なエリートではなく、社会の中心から周辺に追いやられた貧しい人々、土を耕す農民、家畜を飼う遊牧民、下町の庶民、森の中に生きる少数民族の人々であったことを忘れてはいけません。
 
 残念ながら現代社会の中で、クリスマスの人気を支えてきたこうした文化は、次第にイエスの誕生の出来事から切り離され、商業的な目的のために利用されてきました。
 そのためかクリスマスは、生命の神秘や優しい連帯と平和のセンスが薄れてしまい、資本主義のシンボルとでも言えるようなものになってしまいました。
 
 町に輝く人工的な星は目が眩(くら)むほど眩(まぶ)しいのですが、心に届くような光を放射してはいません。デパートに流れるクリスマスキャロルはバックグランドミュージックの一部となって、心には入ってきません。繁華街に蔓延(はびこ)っているサンタクロースの姿は、皆同じような顔に見え、子供の目を引くことはもうありません。
 
 人々の心を豊かにするはずのクリスマスのお祝いは一体どこに行ってしまったのでしょう。そして救い主を信じて、イエスの誕生を教会でお祝いする私たちにとって、町の中で、クリスマス本来の姿を取り戻すことは使命ですが、その方法はないのでしょうか。
 
 一つの方法は、街の交差点や広場で、クリスマスのキリスト教的な意味をしつこく、やかましく説教すること。クリスマスが近づくと、あるキリスト教団体は、新宿や渋谷、大きな繁華街で、スピカーを通して、あらかじめ録音されたテープの説教を流しています。説教よりも脅しと言ってよいでしょう。「時が近づき、主の裁きが迫っています。罪を反省して回心しなさい。悔い改めないと永遠の地獄に入ります」と。
 
 正直言って、このような布教の方法に耐えられなくて、クリスマスが近づくと新宿や渋谷には接近しないようにしていますが、反発を感じるのは私だけではないでしょう。買い物をしながらクリスマスのムードを楽しもうとして、説教を聞きたくない人々の気持ちに同情する心がないのでしょうか。そういうような布教のあり方は、あまりにも一方的で、人の神経を疲れさせ、心を傷つけるだけであって、福音宣教どころか、その反対だと思います。
 
 もう一つの方法は、クリスマスの歓びを皆と分かち合いながら、説教ではなく生き方をもって、慈しみと平和の福音を響かせることです。数ヶ月前に1947年のアメリカの古い映画「34丁目の奇跡」を再び見ましたが、ヒントを得たような気がしました。舞台はニューヨークです。デパートのクリスマス商戦の時期にサンタクロース役として雇われたある老人が、自分は本物のサンタクロースでありたいと言い出して、大騒ぎとなります。
 
 彼はデパートの方針で、作戦であったはずの強引な売り込みをせず、一人ひとりの子供を呼び、抱きしめて、欲しい物は何かと尋ねます。欲しい物が自分を雇ったデパートになければ、それを売っている隣のデパートを紹介します。やがて競争の原則を破るような老人のこうした振る舞いが上役に密告されます。

 老人は訴えられ裁判沙汰になりますが、町の子供たちはサンタを応援して、励ましの手紙を山ほどに送ります。それを聞いて感動した裁判官は老人に無罪を言い渡します。老人の小さな親切を通して愛のメッセージが子供たちに伝わっていた、それこそがクリスマスの真の奇跡であったと認めたからです。
 
 現代の人々に本物のクリスマスの意味を伝えるには、説教ではなく、クリスマスの世俗化の非難でもなく、一緒にクリスマスをお祝いしながら、今日誕生してくる救い主の優しさを、身をもって示すことです。
 
 思い起こせば数十年前、ジョルジュ・ネラン神父はクリスマスの祝いを敷居が高い教会の建物ではなく、街のレストランでお祝いしようと思い、今日のように街で働くサラリーマンに声をかけて、一緒にクリスマスのミサをあげた後に、お酒をもって救い主の誕生をお祝いしました。
 
 映画のサンタクロースのように、ネランさんのように、私たちも家庭なり、職場なり、地域なり、回りにいる人々に、神様の無償の愛を伝えることができれば幸いです。毎日がクリスマスであればいいなという人もいますが、せめて今日の晩と、明日に出会う一人ひとりの人に、優しい声をかけ、温かい微笑みを向け、クリスマスの平和の本当の意味を伝えることができますように。

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聖人になる教皇、ヨハネ二十三世とヨハネ・パウロ二世
2013-07-22-Mon  CATEGORY: キリスト教


エポペには遠藤周作先生以外にもさまざまな文人が訪れてくださいました(たまにゴールデン街に連れて行っていただいたり…)。

その中の一人、小坂井澄先生はキリスト教関連の数多くのノンフィクションをお書きになっている作家です。

そこでこのたび、教皇ヨハネ二十三世がヨハネ・パウロ二世とともに信仰の模範である聖人と認定されましたので、この機会にご紹介したいのがこの一冊です。

小坂井澄著『法王の座 ヨハネ23世・激動の20世紀』(徳間書店)

教皇ヨハネ二十三世は、プロテスタントとの一致、諸宗教との対話、信教の自由など、教会の現代化を打ち出した第二バチカン公会議を開催した人として知られています。

そして人間的にも包容力のある素晴らしい方だったことが今でも語り継がれています(現教皇フランシスコのように)。

この書籍は、とにかく分厚いので、手にされると身構えてしまうかもしれませんが、実際は非常に読みやすい筆致で飽きさせない内容となっています。

あの有名なキューバ危機の際には、ソ連のフルシチョフと米国のケネディ大統領の間を取り持って、核ミサイルによる一触即発の事態を回避するために、非常に重要な役割を果たしたことをご存じの方も多いかもしれません。

酷暑が続く毎日ですが、この夏休みの機会に、その裏面史を垣間見られては如何でしょうか。

ちなみに、文庫版の『回勅 パーチェム・イン・テリス――地上の平和』が新訳で刊行されました。南山大学教授のシーゲル師の翻訳でとても読みやすくなっています。

むしろ、翻訳上の課題を詳らかにしている「訳者あとがき」や、現代から見ると突っ込める点を指摘しているイエズス会のホアン・マシア師の「解説」の方が、とても興味深いとおっしゃる方もおられることでしょう。

いずれにせよ、以下の引用の通り、実は五十年も経っている内容とは全く思えない、まさに世界の政治を動かした文書「回勅」です。価格もお手頃ですので、どうぞ併せてご覧になってみてください。

さらに聖人とは何か、そもそも教皇や回勅とは…などなど、お気軽なご質問については今週末の土曜日(7月27日)の「エポペの集い」(エポペのHP参照)でどうぞ!


「四 個人および政治共同体と世界共同体との関係

 政治共同体間の相互依存

68 科学と技術の近年の発展は、人間に深い影響を及ぼし、相互協力を奨励し、世界規模での統一された共同体を形成するようにと人間を方向づけています。 今日では思想や人間の交流ならびに物の流通が、すすます顕著な現象となっています。さまざまな政治共同体の市民、家族、および中間団体の間の関係が広がり、深まっています。政治共同体の政府当局間の関係もそうです。同時に、それぞれの国の経済は、ますます、他国の経済に依存するようになっています。各国の経済は、徐々に結合し、唯一の世界経済を構成する部分となっています。そして、各政治共同体内の社会的発展、秩序、安全保障、そして安定は、他の政治共同体のそれらと必然的に結ばれています。

 どの政治共同体も、孤立してその利権を追及することで正常な発展を遂げることは、もはやできなくなっています。各政治共同体の発展と繁栄は、他のすべての政治共同体の繁栄と発展から生まれ、同時にそれは他国の繁栄と発展の要因でもあるのです」(教皇ヨハネ二十三世『回勅 パーチェム・イン・テリス――地上の平和』(マイケル・シーゲル訳/司教協議会社会司教委員会・監修/カトリック中央協議会)

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