昨夜、ディスカバリー号が無事に旅立ったことを心から祝福したいと思います。本当にホッとしました。
今回搭乗された日本人女性、山崎直子宇宙飛行士のクラスメイトの幾人かの方たちがお客さまなので、まるで随分昔から知っていたかのようです。
もちろん、直接知らなくてもだれかの無事を祈ることは、ごく自然な人の気持ちに違いありませんが、今回の打ち上げには特に力が入ってしまいました(母校での応援にまで駆り出されて…笑)。
そして、関係者の皆さんにも心からお祝いを申し上げたいと思います。
実は、いつだったか、日本の人工衛星が連続して失敗したときに、軽い気持ちで保険料の値上がりを話題にしたら、「いつものことではないんですよ、むしろ通常は問題がないんです」と真剣な顔つきで反論されたお客さまたちがおられ面喰ったことがあります。
当の関係者(マサニ当事者!)でした。自分の何気ない言葉でだれかが傷つく典型です。
以来、何事も安直に揶揄したりしないように気をつけているつもりですが(? ソノ節はスミマセン…)、さまざまな苦労と努力を経て、11年間待ち続けた末に、131回目のフライトでようやく旅立った彼女の姿は本当に感動的でした。
ご承知のように歌舞伎町では夜の星空があまり見えませんが(むしろ宇宙からはこの近辺のネオンが見えるかも??)、どうか400キロ彼方上空で忙しく働く皆さんすべてが母なる大地に元気に帰還し、最高の祝杯をあげることができますように。
笑顔の素敵なママさん飛行士たちのご無事を心から祈り、ミッションの成功を応援したいと思います。
(ちなみにあす朝の3時50分頃から東京近辺を通過の予定とのことです。NASAのスペシャル・カクテルのレシピーもどこかにあるかもしれませんね…)
「『戦争の世紀』を生きた詩人―原民喜展」(ふくやま文学館 [会期:1月22日~3月22日])が開催された機会に、関連行事としての企画「原民喜を語る」会に参加してきました。
講演をされたのは、原時彦(原民喜 甥)、海老根勲(広島花幻忌の会事務局長)、ウルシュラ・スティチェック(広島花幻忌の会)の各氏の方々です。
海老根氏は中国新聞の論説委員(当時)時代からのお客さまで、エポペのことを記事として取り上げていただいたこともあります。
ご存知の方も多いでしょうが、改めて申し上げると、
この原民喜氏とは、遠藤周作氏がフランス船マルセイエーズ号で横浜港を出航したときに見送ってもらった兄のように慕っていた人物であり、フランスのマルセイユに着いたときに出迎えたのがネラン神父その人だったのです。
さて、100人以上の聴衆が集まった会で印象的だったのは、ポーランド人研究者のウルシュラ・スティチェック氏が、
「アウシュビッツで殺されたのは人間であるということ。ユダヤ人だけではなく、政治犯などを含め、カトリックの神父、ロシア人、ギリシア人、ポーランド人、そしてドイツ人も多かったのです。その意味では原爆も同じです」と語りかけたことでした。
そして、広島在住の大学生ですら、(わたし自身は原爆文学としては井伏鱒二の『黒い雨』と双璧をなす作品、むしろリアリズムとしてはそれを凌ぐものだとさえ思いますが)『夏の花』や原民喜を知らない学生ばかりだと嘆かれたことです。
確かに、広島や長崎でも日本人だけが殺されたわけではなく、他でもない大量の「人間」が殺されたのです。
長くなりますので、続きはお店でお話しすることにし、ここでは原爆に遭遇されたお二人の方の人間についての詩を掲げ、平和への祈りを捧げたいと思います。
ちちをかえせ ははをかえせ
ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ
(峠三吉 原爆詩集『序』)
コレガ人間ナノデス
コレガ人間ナノデス
原子爆弾ニ依ル変化ヲゴラン下サイ
肉体ガ恐ロシク膨脹シ
男モ女モスベテ一ツノ型ニカヘル
オオ ソノ真黒焦ゲノ滅茶苦茶ノ
爛レタ顔ノムクンダ唇カラ洩レテ来ル声ハ
「助ケテ下サイ」
ト カ細イ 静カナ言葉
コレガ コレガ人間ナノデス
人間ノ顔ナノデス
(原民喜 『原爆小景』)
エポペのよき理解者であり、出資者であり、三十年来の後見人として公私にわたって大変お世話になった白柳誠一枢機卿が帰天されました。
いつでも恩人が亡くなるのは非常に辛いものですが、今回はかなり、いえ相当堪えています。
わたしにとって白柳枢機卿は、ネラン神父とは別の「オジキ」「オヤジ」とも呼ぶべき方です。若輩の身で経営者として選ばれてしまった自分がエポペの運営を続けることができたのは、陰になり日向になってご指導いただいた枢機卿の存在があればこそでした。
「ネランさんはね、リオン人だからひとをクリティーク(批評)するようなところがあるけれど、本当は日本人が好きで好きでしょうがないんだよ」と、自分がまだ神学生時代にローマでネラン神父に御馳走してもらったことを話しながら、一番最初の出会いで励ましてくれたことを思い出します。
爾来、二十年以上も前からのことになりますが、たびたび中国にご一緒させていただき、当時はあまり知られていなかった、いわゆる「愛国協会の教会」についての最初期のリポートを、さまざまなカトリックメディアで紹介する機会を得たのも枢機卿(当時は大司教)のおかげです。
まだわたしも二十代だった当時、背が低くて丸顔のなかで細い眼が光る白柳大司教は、アジアの平和と日本の教会の役割を模索しておられた、決して舐めてかかることのできない怖いオヤジでした。
しかし同時に、根は本当に優しい頼りになるお茶目な方であることもわかっていました。教皇ヨハネ・パウロ二世のお人柄について親しく伺う機会に恵まれたのも幸運でした。
いくつもの忘れられない思い出があります。
一番若かったので、当然のように他の神父さまに呼び捨てで呼ばれたり、使われたりするわけですが、そんなときに大司教が一言、「彼は社長だよ」と言ってくださったこと。
またあるときは何気なく大司教の鞄を持とうとしたときに、「ひとの鞄は持つもんじゃないよ」とさりげなく言ってくださったこと。
長年にわたって土井辰雄大司教(枢機卿)の秘書を務められたときのことや、若くして東京大司教に選任され年配の司祭たちとの関係に腐心したこと、その神父さまたちを見送ったときのことなどを話してくださったこともありました。
そんな苦労に裏打ちされた、わたしのような下っ端に対しての心遣いも忘れない方でした。
バブル崩壊で経営者として追い詰められたときに、いまはもう無くなってしまった古い大司教館で悩みを聞いていただき、告解をしたことや助けていただいた日のことが昨日のことのように感じられます。
「あなたはわたしへの従順を約束しますか」「はい、大司教さま」「では、暫く休みなさい」
司祭ならぬ身で、司教への従順を約束させられたこともありました(笑)。
福音宣教を目的とする飲食業と定款に明示されているエポペを、この歌舞伎町の中で品位を保ち健全に維持するよう責任者としての使命感を与え、陰で支えてくださったのは他ならぬ枢機卿だったことになります。
グイド司教のマントに包まれた裸のフランシスコがどれほどホッとしたか、(僭越ながら)少しはわかる気さえしたものです。
プロテスタントの方々との交流も大切にされ、世界宗教者平和会議日本委員会の代表として諸宗教との対話にも力を注がれたことも忘れられません。
伝統ある東京YMCAの午餐会にカトリックの聖職者としてはじめて枢機卿をお招きしたときのことです。「愛の文明」と題する卓話をしていただく前に、プロテスタント教会の重鎮の方々との挨拶がありました。
「わたしは福音主義の……です」「わたしは福音派の……でございます」
皆さんが自己紹介をなさる中、隣にお付きとして控えていたわたしに向かって枢機卿はコソっと一言。
「どうも、わたしたちは福音主義ではないらしいねえ」
並みいる長老方を前にして笑いを堪えるのに随分苦労したものです。
あるとき、エポペにいらしているときに、枢機卿の肩を揉もうと思って触れた瞬間、本当にびっくりしたことがあります。
文字通り鋼のような、固い、堅い、硬い肩だったからです。
「なんですか、これは! まるでH字鋼のような…」と悲鳴をあげたのはこちらでした。
「どんな針も整体も効かないんだよ」と苦笑いしながら一言。
腕の力には自信があるつもりでしたが、どんなに力を振り絞っても太刀打ちのできない、広くて大きな肩でした。
小さな男の子の姿をしたイエスを背負った男クリストファーが、その重さに驚いた物語がありますが、どんなに社長業が大変でも、このストレスと心労には勝てないと実感させられた瞬間でした。
枢機卿さま、なんとかお元気なうちに恩返しがしたかったのに、何もできず、誠に申し訳ありませんでした。言い尽くせないほど大変お世話になりました。
あなたがローマの日本人枢機卿であったこと、日本のカトリック教会のトップであったこと、エポペの大株主であることを心から誇りに思い、深く感謝しております。
イエス・キリストとともに永遠のいのちを生きる喜びについて、枢機卿が遺されたその数々の教えや遺産を大切に、次の世代に引き継ぐべく今後も微力ながら全力で努力して参ります。
いままで、どれほどお疲れになったことでしょう。どうぞ、これからはゆっくりお休みください。本当にありがとうございました。
またお会いする日まで。
2002年に行われた日韓ワールドカップの開催で両国が盛り上がったのは、つい昨日のことのようですが、そのとき、「もう一つのワールドカップ」が日本で行われたことをご存知でしょうか。
知的障がい者のワールドカップ、正式名称を「INAS-FID」(知的障害者スポーツ連盟)サッカー世界選手権大会がそれです。
わたしの場合は、韓国人留学生たちと大騒ぎをしていただけですが、たまたまこのとき、FIFAのワールドカップのチケットが手に入らず(キリスト教的には「偶然」とは、「神の恩寵やご計画」という意味も含まれます)、このもう一つのワールドカップを観て感動した客さまがおられました。
このときの観戦がきっかけとなり、4年後に行われたもう一つのドイツ大会に同行し、映画「プライド in ブルー」を製作することになった中村和彦監督がその方。
もともとサッカー好きだったのが、こんなチームがあることを知らなかったことに衝撃を受け、もっと知りたいと最初は自費から取材をはじめたのだそうです。
そして、一人ひとりの選手に関わるなかで見えてきたものとは何か、御あとは見てのお楽しみです。
http://www.pib-line.jp/
普段気付かずに過ごしている日本の福祉や教育、いじめや障がい者と社会のかかわりの問題についても、重くなりすぎずに、さらりとではありますがしっかりと描かれ、わたし自身も考えさせられました。
しかし、難しいテーマもあるにせよ、ルールもFIFAと一緒で、45分、45分の試合は見ごたえ十分。なによりも青年らしい清々しさと素敵な笑顔を見ながら、ドイツ遠征の旅を一緒に続けているうちに、だれもがきっと彼らのファンになってしまうはずです。
現在、この日本の選手たちを支えているのが、特定非営利活動(NPO)法人日本知的障害者サッカー支援機構(略称:NHFS)です。この団体の設立自体はまだ新しいのですが、中村監督をはじめ事務局の方たちもエポペのお客さまです。
http://nhfs.jp/
先日は長崎から来られた施設の理事長さん(偶然…浦上教会の所属だそうな!)が、世界大会に出るための長い陰の努力を語ってくださいましたが、日本代表MFの中村俊輔選手なども一生懸命支えてくれているのだそうです。
DVDが出ていますので一度ご覧になっていただき、偶然(くどいですね・笑)関係者にお会いになった際には、ぜひお話ししていただければ幸いです。
ヨーロッパに留学し、その後も当地の教会で働いている牧師先生がお医者さんのお兄さま(なんとネラン神父の病院の先生! 世の中狭い…)と15年ぶりに来店です。抱き合って再会を喜び合いました。
いまでは黒いガウンがいかにも似合いそうな貫禄十分なお姿ですが、当時の先生は、まだ教職としては駆け出しのころ。
わたしもまだまだ若くて、新宿歌舞伎町ゴールデン街の店(マスターが古くからのマブダチ)にお連れしたり、朝まで語り合ったり(説教の方が多かったと先生は感じていたようですが!?)とお互い青春真っ只中でした。
このように、カトリックの司祭(神父)はもちろん、そんな仲のいい、いまでは立派になられたプロテスタントの牧師先生たちが何人もいらっしゃいます。
実はエポペが始まる十年ほど前から、新宿・末広亭のそばには「場25時」という牧師先生が始めたお店がありました。残念ながらエポペが始まってほどなく、引き継ぐかのように閉店されてしまいましたが、このスタイルではプロテスタントの方がかなりの先輩にあたるわけです。
そのようなこともあって、エポペではカトリックだけでなくプロテスタントのスタッフも何気なく働いています。ですから、いまでは立派な牧師先生たちも、実は昔はエポペのOBスタッフやお客さまだったりするかもしれません。
よくプロテスタントとカトリックの違いを尋ねられますが、ネラン神父に言わせると、「デパートの伊勢丹と三越の違いで、勧めているもの(イエス・キリスト)は一緒ですよ」とのこと。
(そういえば、伊勢丹と三越も、現在は共同で事業をするようになったようですね!)
それよりも、イエス・キリストこそが重要(一コリント1・10-25)であることは申し上げるまでもありません。
でも、やっぱり、どうしても神学的な詳しい説明を聞きたい方は直接お越しください。朝までじっくりと(……もちろん冗談です。ホントにキリがありませんから、推薦図書やそれを考えるためのポイントをご紹介。最後に決めるのはご自身です!)お話しいたしますのでお楽しみに。