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ご存知ですか、「愛」の意味―日本人の救いとキリスト教⑧
2011-08-08-Mon  CATEGORY: キリスト教

 キリスト教の核心である愛の話は、説明する者にとっては、実はそんなに簡単な作業ではありません。とことん短くするか、いったん始めると、とんでもなく長くなるか……。

 案内所であるエポペではサワリだけを申し上げますので、できれば詳細は体系的に解説ができるよう神学校で何年も学んでいる司祭(神父)や牧師先生にお尋ねください。
 
 それでは百瀬文晃神父による要約の二番目に入ります。

 「神の愛に生かされるときに、人には相互の愛と和解が可能になる」

 ここでの「神」という呼称ですが、昔は天主とか、デウスというように呼んでいました。

 (ちなみに中国の天主教会はカトリック教会を指します)

 いわゆる神道で考えている神々の神とは違う、という意味合いからそう呼んだのです。この「愛」についても同様で、キリシタン時代は「御大切」(「どちりいなきりしたん(1591年)」第6)と表現されていました。

 むしろ、この時代の「あいする」(同、第2)という言葉は、仏教の愛欲(煩悩)に通じるためか、もっぱら自分が興味を感じているものを大事にして楽しむだけの悪癖の意味で使われているほどです(尾原悟編『キリシタン文学双書 きりしたんのおらしよ キリシタン研究第42輯』教文館出版部刊、参照)。

 さて、遠藤周作氏によると、この「神」を「自分を超えたx」や「タマネギ」と呼んでもいいと言っておられますが(遠藤周作著『私にとって神とは』朝日文庫、光文社文庫など刊)、要は前回ご説明したイメージです。

 ネラン神父の場合は、神の愛のイメージは、放蕩息子のたとえ(ルカ15・11-32)が一番近いのではないかとも申しておりました(以前にもこのブログ[2011-03-04付]でご紹介しましたので今回は割愛いたします)。

 そしてパウロは、「愛」について次のよう表現しています。

 そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。
 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。
 幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。
 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である(1コリント12・31、13・1-13、『聖書 新共同訳』日本聖書協会より)。

 もうすでに長くなり始めましたが、これらの愛がキリスト教の考える「愛」なのです。

 この神の愛は、真剣に実践しようと考えれば考えるほど、とても実現可能とは思えないほどですが、それこそがゆるしと「和解」の源になるので、神に支えられ助けられて「神の愛に生かされるとき」と述べているのです。

 ところで、かなり多くの方がこの人間業(わざ)とは思えないような愛を聞いて、二人の門出を祈っておられるはず。そうです、ここはキリスト教結婚式でよく朗読される箇所なのです。

 そして、このような愛に満ちた(人間業とは思えないような!?)結婚生活を神の前で誓う以上は、その助力を神に願い祈るしかないはずです(笑)。

 ネラン神父は、「結婚とは自分の人生を与えることだ」と述べています。ご自分のパートナーには物質的なものだけでなく、時間や人生までも与えるのが本物の愛だ、というわけです。

 (この話を聞いて、エッ、嘘でしょと小さく叫んだ貴方。お酒でも飲みにお店にどうぞ~。愚痴、聞きます)

 イエス・キリストの愛はさらに、ご自分のいのちさえも差し出される神の愛です。こうしてイエスの告げた「神の国」の愛は、単なる理想ではありませんでした。

 その気になれば闘うことも逃げることもできたはずですが、神と隣人を愛し、敵をも愛する姿勢を最後まで変えず、十字架へと向かうのです。

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