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永遠へと向かう愛の姿―日本人の救いとキリスト教⑨
2011-08-12-Fri  CATEGORY: キリスト教

 いままで申し上げたような愛に生きる人々が、実は身近に大勢いることは、すでに多くの方がご存知のはずです。

 東日本大震災のときに、避難誘導のアナウスを最後まで続けて津波に襲われた女性職員や、機能しなくなった防災無線の代わりに半鐘を鳴らし続けて流された消防団員の姿を、わたしたちはいつまでも忘れないでしょう。

 命がけで原子炉への注水活動を続けた自衛官や消防官の方々をはじめ、不眠不休で働き続けた医師や看護師、学校の先生方、そして名もない多くのボランティアの方々など、そこには多くの人々の献身的な姿がありました。

 さらに大震災から5ヶ月たってもまだご遺体の捜索を続けている、全国から派遣されている警察官の懸命な姿のうちにも。

 炎天下にもかかわらず、ご遺体を傷つけないように、遺留品を見つけるために丁寧に続けられている作業の連続は、単に仕事だからできるというものではないでしょう。 

 この方たちとそのご家族のために真摯に祈りをささげたいと思うのはわたしだけではないはずです。

 キリスト教ではこのような人々のうちに隣人愛の姿を見ます。聖書に記録されている有名なたとえ話は「善きサマリア人のたとえ」です。

 イエスが隣人愛の模範とした「善きサマリア人」は、もちろんキリスト者ではなく、ユダヤ人ですらありませんでしたが、イエスはこのたとえ話で隣人愛と永遠のいのちの関係を描き出します。

 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。
「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」(ルカ10・25-37、『聖書 新共同訳』日本聖書協会より)

 この隣人愛こそは、「永遠のいのち」へと向かうというのです。それが要約の3番目になります。

 「神の愛に生かされた生は、死を超える永遠の生へと成長する」

 キリスト教では、この世には、はじまりがあり、終わりがあると考えていますが、その終わりは破滅ではなく、完成です。人間の生にも同じようにはじまりがあり、成長があり、死があります。しかし、この死は無に帰することではありません。

 十字架上のイエスの死は、生身の人間としての弱さ故であり、この世の不条理や悲惨さ、苦しみや悲しみ、辛い現実も象徴しますが、同時に神の子として永遠のいのちへと至る復活のシンボルでもあるのです。

 イエス・キリストのもたらした福音は、重荷を背負った苦しい「生」を生き、神のいのちである「愛に生かされ」、さまざまな試練を乗り越えて「成長し」、「死」を迎えたとしても神の「永遠の生」に至るのだと告げます。

 したがって、キリスト教では、多くの日本人が日々努力しているその行為の中にも、神の働きかけがあると感じています。

 そこには既に、現世ご利益とは違った意味での神の「救い」に至る道があることが示されており、だれもが永遠の神のいのちへと招かれていると言えるのです。

 それでは前座の口上はこのあたりとさせていただきます。ぜひ、今回の要約の元になっている、百瀬文晃著『キリスト教の原点―キリスト教概説Ⅰ』(教友社刊)をお読みになってみてください。

 『岩波キリスト教辞典』(岩波書店刊)や『新カトリック大事典』(研究社刊)などにも目を通していただき、キリスト教2000年の深さや広さを感じていただければとも思います。

 今回はキリスト教の「救い」というテーマについて、その入り口をお話しましたが、ネラン神父があまり触れなかった専門用語は、ここでも敢えて触れなかったことをお断りしておきます。

 そして、キリスト教の全体像を体系的に見ようとせずに、つまみ食いだけをすると、とんでもない誤解をする場合があり、知識だけでは魂の問題に深くかかわれないことを強く申し上げておきたいと思います。

 論語読みの論語知らず、ではありませんが、何百冊も恋愛小説を読んだからといって、恋愛がわかったことにはならないのと同じです。

 近年、いわゆる「宗教が簡単によくわかる本」も数多く刊行されていますが、例えるなら、ご自分では一度も真剣にだれかと深く付き合ったことがないのに、男女の機微について解説をしているように感じてしまうのです(誤解なら大変申し訳ありませんが…)。

 最後になりますが、神学研究は日々より深く、さらに「成長」しています。どうか、それぞれ本物の宗教の専門家と向き合う中で、その意見を聞いてくださるよう切にお願いいたします。

 (お尋ねいただければ、カトリック、プロテスタント、仏教を問わず、信頼できる方々をご紹介いたします)

 G・ネラン著「神の啓示」、「なぜ十字架を」もご参照ください。
 http://www.epopee.co.jp/neyrand.html

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