主の降誕と新年をお祝い申し上げます。
昨年中は大変お世話になり、こころより御礼を申し上げます。
本年は、お年賀を申し上げられるような雰囲気ではないかもしれませんが、
降誕節は今日までなので(カトリック教会典礼暦)、一言ご挨拶申し上げますことをおゆるしください。
祝うは斎うことであり、潔斎して吉事を言葉で言祝ぐ(寿ぐ)こと。
正月はご存じのように、新たな年に歳(年)神様が来られることを祝うからであり、
神道では一年の穢れを祓い、明けて新年となって、春が来ることもお芽出度いということになるのでしょう。
キリスト教の場合は、欧米の新年を祝う言い回しはどの言語でも同様の文章で、たとえば英語では()内のような祈りの部分がかくれています。
(I wish you have a) Merry Christmas and a Happy New Year!
ちなみに韓国語では「福がたくさんありますように」という言い方があり、いずれにせよ、どちらも正月に相手の方の一年の幸福を願う祈りなので、喪中の人には言わないということはないようです。
しかし現在の日本の場合、多くの方が悲しんでおられる国難の最中にあることを考えますと、明けましておめでとうという表現はどうしても憚られてしまいます。
自分自身、柳田國男先生言うところのハレとケの生活の中に生きている日本人の感性があることを切に感じさせられます。
先日出席させていただいた、在京ワイズメン(YMCAサポート団体)の新年会、音楽礼拝の中で、陣内大蔵(CMソングなどシンガーソングライターや音楽プロデューサーでご高名ですが、実は牧師)先生が、寄り添うことの難しさを話しておられたのが印象深く残っています。
昨年の大震災の後、先生が、ご自分のいとこも牧師をしておられる日本キリスト教団新生釜石教会にお手伝いに行かれたときのこと。
そこの教会では、どなたでも参加できる焼き肉会が定期的に行われており、近くの避難所の方も来られていて、たまたま誕生日の方いらしたのだそうです。
そこで先生としては、誕生日のお祝いの歌を歌い、その場を一生懸命盛り上げたつもりだったのだそうです。
ところが、後日その方から、あの日、実は自分は誕生日を祝う気分ではなかったと言われたということです。
先生はこの出来事(恐らく祝われた方は亡くなった方たちのことや現状に想いが向いていたのでしょう…)にショックを受けたということでしたが、わたしにも、相手の方を思って行動することの難しさや辛さがわかる気がします。
お客さまを慰めようと思って話しかけても「ほっといてくれ!」と拒絶されたともありますし、反対にそっとしておこうと他の方と話していると、「無視された」と後で言われてしまったこともあります。
どんなに強そうに見える方でも、人のこころの魂の深い深い部分は、ごくごく繊細で難しいものだとしみじみ思います。
(特にお酒が入っていると、精神的に無防備になっていることが多く、こちらは冗談のつもりでも、大きく傷つく場合もあって、油断できません…)
とはいえ、どんなに注意しているつもりでも、所詮は人間のすること、言うことなので、失敗がつきもの。
このお誕生日の方の場合は、実はあのときはこんな気持だったと、その方が正直に言ってくれたというところが先生の人徳を感じさせ、とにかく関係性が生まれたという意味で、先生の日々の牧者としての姿を彷彿とさせるお話でしょう。
さて、牧師先生ですらこうですから、自分の場合は正直、貝になりたいときがあります。
(ところが、貝になるのもまたゆるされない場合が……)
ですから、どうか、これから一年、わたしの言葉や態度で傷つかれたことがありましたら、何卒ご寛恕くださいますよう伏してお願いいたします。
新年早々、先に謝ってしまうのもどうかと思いますが、難しい年の始まりに、覚悟と願いをこめて、このようなご挨拶になってしまいました。
最後に、先生のとても美しい曲と歌声をご紹介したいと思います。他にもたくさんありますが、どうか、ぜひ、お聞きになってみてください。
作詞・作曲・編曲:陣内大蔵「Where is God」
皆さまのご多幸とご健康をこころよりお祈り申し上げます。