エポペ航行日誌
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日本のクリスマス、人気の秘訣は一体どこに? (シェガレ神父説教)
2013-12-24-Tue  CATEGORY: キリスト教

 クリスマスおめでとうございます。おかげさまをもちまして、第34回エポペ・チャリティクリスマス記念ミサ&パーティも無事に終えることができました。キリスト者ではない方々も大勢来てくださり、福音(よい知らせ)を伝えるエポペの使命を今年もなんとか果たすことができました。

 今回も司式していただいたオリビエ・シェガレ師は、東京の信濃町駅すぐそばにある真生会館(学習センター・カトリック学生センター)の館長でありながら、パリ外国宣教会日本管区長の重責も担われ、毎日曜日にはカトリック高円寺教会(東京教区・主任司祭 吉池好高師)の協力司祭としても働いておられます。この場をお借りしまして改めて深く御礼申し上げます。

 ちなみに今晩12月24日、高円寺教会で行われる「主の降誕(夜半のミサ)」でも共同司式をなさいますので、お話しをなさってみたい方はお気軽にぜひお越しください(やさしい吉池神父さまも安心して訪ねてみてください…)。

 以下にミサでのシェガレ師の説教を掲載させていただきます。ご参加ご協力、そして遠くからお祈りいただいた皆さますべてに深く感謝いたします。皆さま、どうぞ素敵なクリスマスをお迎えください!


<エポペ・クリスマス記念ミサ2013  オリビエ・シェガレ師説教(全文)>

 今年もクリスマスを皆でお祝いしています。キリスト教国ではないこの日本の、イエスがほぼ不在のままのクリスマスなのに、その絶えることのない人気の秘訣は一体どこにあるのかと、いつも疑問に思います。
 
 人類学の視点から、日本人はお祭りが好きだからという説が出るかもしれません。日本人は宗教の内容とはあまり関係なく、何であれ、お祭りの気分を味わいたがり、日常の煩わしさを忘れ、皆と一緒の一体感を楽しみたいと。
 
 しかしクリスマスの人気を支えているのは、それだけではないでしょう。皆は、疲れ果てている競争の激しい見栄の張る社会の中にあって、クリスマスの馬小屋にある飾り気のない素朴な環境、そこに溢れる家族の愛情の豊かさ、その優しさと平和の雰囲気に心が捉えられているのでしょう。
 
 物質的な繁栄だけに満たされ得ない現代の人々は、一人の小さい命の誕生を迎えている、貧しい羊飼いの心の豊かさや純粋な歓びに、心が動かされているに違いありません。
 
 多くの人は、クリスマスを通して、イエスの出来事そのものを祝うよりも、2000年の間に形成されたクリスマス文化の温かさを求めているのでしょう。その意味でのクリスマスは物足りないという批判もありますが、私としては、クリスマスがキリスト教を知らない人を含めて、全人類が共有できるような文化になったことを喜ぶべきだと思います。
 
 この文化は豊かな象徴力をもち、生命のたくましさを感じさせるもみの木、永遠の光りへの憧れを呼び覚ます星、故郷の温かさを思い出させる素朴な馬小屋、人の心に歓びを呼び起こすようなあどけないキャロル、それらのものに生かされています。

 こうしたクリスマスの文化の担い手は、インテリや指導的なエリートではなく、社会の中心から周辺に追いやられた貧しい人々、土を耕す農民、家畜を飼う遊牧民、下町の庶民、森の中に生きる少数民族の人々であったことを忘れてはいけません。
 
 残念ながら現代社会の中で、クリスマスの人気を支えてきたこうした文化は、次第にイエスの誕生の出来事から切り離され、商業的な目的のために利用されてきました。
 そのためかクリスマスは、生命の神秘や優しい連帯と平和のセンスが薄れてしまい、資本主義のシンボルとでも言えるようなものになってしまいました。
 
 町に輝く人工的な星は目が眩(くら)むほど眩(まぶ)しいのですが、心に届くような光を放射してはいません。デパートに流れるクリスマスキャロルはバックグランドミュージックの一部となって、心には入ってきません。繁華街に蔓延(はびこ)っているサンタクロースの姿は、皆同じような顔に見え、子供の目を引くことはもうありません。
 
 人々の心を豊かにするはずのクリスマスのお祝いは一体どこに行ってしまったのでしょう。そして救い主を信じて、イエスの誕生を教会でお祝いする私たちにとって、町の中で、クリスマス本来の姿を取り戻すことは使命ですが、その方法はないのでしょうか。
 
 一つの方法は、街の交差点や広場で、クリスマスのキリスト教的な意味をしつこく、やかましく説教すること。クリスマスが近づくと、あるキリスト教団体は、新宿や渋谷、大きな繁華街で、スピカーを通して、あらかじめ録音されたテープの説教を流しています。説教よりも脅しと言ってよいでしょう。「時が近づき、主の裁きが迫っています。罪を反省して回心しなさい。悔い改めないと永遠の地獄に入ります」と。
 
 正直言って、このような布教の方法に耐えられなくて、クリスマスが近づくと新宿や渋谷には接近しないようにしていますが、反発を感じるのは私だけではないでしょう。買い物をしながらクリスマスのムードを楽しもうとして、説教を聞きたくない人々の気持ちに同情する心がないのでしょうか。そういうような布教のあり方は、あまりにも一方的で、人の神経を疲れさせ、心を傷つけるだけであって、福音宣教どころか、その反対だと思います。
 
 もう一つの方法は、クリスマスの歓びを皆と分かち合いながら、説教ではなく生き方をもって、慈しみと平和の福音を響かせることです。数ヶ月前に1947年のアメリカの古い映画「34丁目の奇跡」を再び見ましたが、ヒントを得たような気がしました。舞台はニューヨークです。デパートのクリスマス商戦の時期にサンタクロース役として雇われたある老人が、自分は本物のサンタクロースでありたいと言い出して、大騒ぎとなります。
 
 彼はデパートの方針で、作戦であったはずの強引な売り込みをせず、一人ひとりの子供を呼び、抱きしめて、欲しい物は何かと尋ねます。欲しい物が自分を雇ったデパートになければ、それを売っている隣のデパートを紹介します。やがて競争の原則を破るような老人のこうした振る舞いが上役に密告されます。

 老人は訴えられ裁判沙汰になりますが、町の子供たちはサンタを応援して、励ましの手紙を山ほどに送ります。それを聞いて感動した裁判官は老人に無罪を言い渡します。老人の小さな親切を通して愛のメッセージが子供たちに伝わっていた、それこそがクリスマスの真の奇跡であったと認めたからです。
 
 現代の人々に本物のクリスマスの意味を伝えるには、説教ではなく、クリスマスの世俗化の非難でもなく、一緒にクリスマスをお祝いしながら、今日誕生してくる救い主の優しさを、身をもって示すことです。
 
 思い起こせば数十年前、ジョルジュ・ネラン神父はクリスマスの祝いを敷居が高い教会の建物ではなく、街のレストランでお祝いしようと思い、今日のように街で働くサラリーマンに声をかけて、一緒にクリスマスのミサをあげた後に、お酒をもって救い主の誕生をお祝いしました。
 
 映画のサンタクロースのように、ネランさんのように、私たちも家庭なり、職場なり、地域なり、回りにいる人々に、神様の無償の愛を伝えることができれば幸いです。毎日がクリスマスであればいいなという人もいますが、せめて今日の晩と、明日に出会う一人ひとりの人に、優しい声をかけ、温かい微笑みを向け、クリスマスの平和の本当の意味を伝えることができますように。

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