クリスマスおめでとうございます。おかげさまをもちまして、第35回エポペ・チャリティクリスマス記念ミサ&パーティも無事に終えることができました。今回も司式していただいたオリビエ・シェガレ師は、東京の信濃町駅すぐそばにある真生会館(学習センター・カトリック学生センター)の館長でありながら、パリ外国宣教会日本管区長の重責も担われておられます。この場をお借りしまして改めて深く御礼申し上げます。
以下に説教の全文を掲載させていただきます。
<第35回エポペチャリティクリスマス記念ミサ 説教>
今年は渋谷に溢れる群衆の中に、2000年前に起きた出来事、イエスの誕生を記念しています。だれでもよく知っているこの物語をさきほど聞きました。
貧しい家に一人の赤ちゃんが生まれ、旅先のことで、お母さんは酷く疲れていました。宿の予約を取れず、赤ちゃんを馬小屋の飼い葉桶に寝かせました。東京の山谷辺りにでも起こり得るような小さな事件でした。羊飼いのほかには誰も気付いていなかったこの出来事は、救いの歴史を開く初めてのクリスマスとなったわけです。
あの頃は、サンタクロースも、クリスマスケーキも、クリスマスのイルミネーションもありませんでした。何もなかったけれども、新しい命を受け入れる家庭の温かさ、いたわり合う家族関係、愛情に満ちた環境が整っていました。神の子はこうした信頼や愛が溢れる素朴な環境の中で沈黙の夜に生まれ、人間となられて、矛盾や傷の多い私たちの現実の中にお入りになっています。貧しかったが、新しい命を迎え入れたマリアとヨセフの喜びは、どれほど大きかったか想像できます。一人の子供が生まれる時のすべての母さんや、お父さんの喜びです。
一年前、日本のクリスマスに関する調査が行なわれたが、クリスマスについてどんなイメージを持っていますかという質問に対して最も多くの人は家族と一緒に過ごすことだと答え、次はイルミネーション、そしてケーキ、恋人、プレゼント、最後にエネルギーの無駄と答えた人もいますが、イエスの誕生に触れる答えは一切出ませんでした。
私の国フランスでは同じ質問に対してやはり家族がトップとなり、次はプレセント、御馳走、買い物で、イエスの誕生と答えた人は14%だけで、最後には「しんどい」という答えがありました。
今、日本とフランスだけではなく、世界の人々が持っているクリスマスの一番強いイメージは家族ですが、これは意味深いことです。それほど家族は現代人にとって、ほっとできる癒しの場、心を暖める場、救いの場であることがわかります。元々宗教的な行事であるクリスマスの世俗化は確かに問題ですが、それでもクリスマスをきっかけに皆が家族のことを思うのは、すばらしいことではないでしょうか、こうした世界の人々の期待を受けとめていながら、救い主の誕生というクリスマスの本来の意味をどう伝えたらいいかというテーマは私たちの課題でしょう。
クリスマスの意味を伝えるために、渋谷駅の出口にスピカーから流れている説教も抽象的な理屈もあまり助けにならないような気がします。私としてはいつもクリスマスの意味を考える時、電車の中の一つの思い出が心に浮かんできます。私はなるべくなら自転車を使って電車にほとんど乗ることはありませんが、ある時、雨の日で、山手線の電車に乗っていました。クリスマスが近づいて、ラッシュアワー直前の夕方5時ごろでした。電車はそれほど混んでいなかったのですが、席は空いていませんでした。電車に乗っていたのは買い物の主婦やサラリーマンやスマートホンに熱中な若者でした。
ある駅で、赤ん坊を抱えている若いお母さんが乗ってきました。さっと一人の男性が席を譲ってくれました。若いお母さんは嬉しそうににっこり笑って、お礼を言って座りました。電車に一緒に乗っていた私と他の乗客はこの光景を見て何となくホットした気持ちになりました。赤ちゃんを抱えていた女性の右に一人の中年の男性が座っていました。この男性はいかに生真面目そうに見え、真正面を見つめていました。しばらくすると赤ちゃんはその男性の方へ身を乗り出すような格好で「バブバブ」とわけの分からないことを喋りながら、男性の肩をたたき始めました。男の人が思いがけず微笑みを浮かべ、赤ちゃんの手を撫で始めました。
この微笑ましい光景を見て、乗客は知らないうちに表情が和み、何となく嬉しい気持ちになり、若者でさえスマートホンを忘れ、目を上げていました。身を守るすべもなく、大人を信頼しきっている赤ちゃんを見ていて、皆の緊張が解かれ、幼子のような心にもどったかのように見えました。言葉がなかったが、互いの心が開き合うような、親近感というか、一瞬のコミュニョンが生まれたような気がして、電車の中に真のクリスマスがやってきたと思いました。一人の赤ちゃんの登場のおかげで、今まで無視し合っていた人の間に、心のつながりが生まれ出て、通じ合うようになり、連帯感が生まれていました。一瞬、救いがここに訪れたという実感を持ちました。
救いとは何でしょうか。多分、一番多くの人が信じている救い主は、神様よりも繁栄を守る強い経済、安全を保証する強い国家、万能を約束する科学技術であります。
もちろんしっかりした経済、政治、科学の進歩は大切なものです。しかしそれだけでは人間が救われることでしょうか。偶像崇拝の対象となった時の経済は社会格差の原因となり、力に頼る政治は弾圧と差別の道具となり、限界を知らない科学は原発事故が示したように環境破壊につながり、地球の命を脅かすものとなります。
クリスマスに見られる救いとは、人の心を縛り付けているエゴイズムからの解放、皆が互いに譲り合い、平和を味わい、兄弟姉妹のようにつながり、愛を感じている状態です。これはどうしても、この世のものが約束できる救いではありません。
この救いは、決っして遠い理想、来世だけに約束されるものではありません。救いは私たちのこの現実に始まるものです。神は私たちの現実にお入りになり、無防備のままに生まれ、共に歩んで下さる方です。クリスマスに生まれる救い主は、富を増やすような救い主でもなく、人々が期待するような敵を打ち破るような権力者でもなく、万能を約束する学者のような救い主でもなく、弱い赤ちゃんの姿をもって現れ出てくる神の子です。
強さの中ではなく、弱さの中に主なる神の「救い」の働きが私たちの現実に隠されています。探せば見い出します。今日、クリスマスを祝う世界の人々が、こうした救い主を迎え入れて、武器を捨てて、心が和み、競争のストレスから解放され、平和を楽しみ、贈り物を交換しながら、互いの心を開き合い、真の喜びを味わえるように祈りたいと思います。