「あたし、こわい…」
さっき帰ったばかりのはずの女性スタッフからの電話です。時刻は午前零時もあと僅か、残っていたスタッフも帰る準備をしていたところでした。春の陽気に包まれて、なんとなくからだも軽やかな夜、のはずでしたが。
「もしもし、どうしたの」
背筋に冷たいものが走り、受話器を握るわたしの手にも思わず力が入ります。
「いるんです。あの人が」
「いるって、いつも向かいの部屋から見つめている男の人のことかい」
先日はついに彼女のアパートまでやってきたらしいという報告を、強面のチーフスタッフから聞いたばかりでした。
「はい…。きょうは、改札で待っているんです。あたしこわい…、もう、きもい(気持ち悪いの日本語。韓国人留学生もフツーにツカイマス)」
お客さまからいただいたお酒のほろ酔い加減が吹っ飛びます。
旧約聖書続編(シラ書〔集会の書〕)には娘をもった父親の苦労が描かれていますが、年頃の娘を何人も預かっている身としては、日頃から、常に最悪の事態を想定しながら安全策を練ることもジイヤのお役目の一つ。
「至急、至急、本部より各局、ストーカー被害入電中。マルガイにあっては…」
店内に赤色灯が回転しはじめ(…そんな妄想に浸っている場合ではなく)即断即決の局面です。
「なんでもいいから反対側の電車に乗って戻ってらっしゃい。こちらからもすぐに駅に迎えを送るから」
残っていた男性スタッフに、直ちに迎えに行ってくれるように指示を出し、チーフにも連絡を入れます。
留学生スタッフの前では努めて丁寧語や謙譲語、尊敬語表現を使うように心がけていますが、「この間の話、もう少し詳しく聞かせて」と、まるでチーフの彼に責任があるかのように詰問調です。
その方面のお客さまたちのお話では、民事不介入の基本は警察の大原則だそうですし、若い人たちの色恋沙汰を前にして野暮なオヤジにはなりたくないところです。
が、時代は変わり、女性を巡る深刻な事件が多い昨今、模倣犯が増えるのは当然、そンなことはこの際言っていられません。
お節介ジジイ結構!喧嘩上等!オイラが大将!まだ嫁なんかに出すか(?)という局面(血圧上昇中…)。
実は、このちょっと前にも、他の女性スタッフに同じようなことがあり、大騒ぎになったことがあるのです。
そのときは、その女性スタッフの帰り道に、車が駅からずっと後を付けてきているという携帯からの電話でした。
その後、なんとその電話連絡が突然途絶え、店内は騒然とした雰囲気に。
慌てて近所に住むスタッフを派遣したり、交友関係を洗い出して(!?)彼女の部屋まで行ってもらったりと、それはもう大変でした。
このときは、明け方に電話があり、逃げている最中に携帯を落としただけだったそうな(…オトウサンはマジで腰が抜けましたヨ)。
いずれにせよ、交番のお巡りさんに相談したり、パトロールを強化してもらったりしましたが、いくら防犯グッズに身をかためても対策には限界があります。
「いいかい。これからは夜遅くに、そんな短いスカートはだめだよ。特に若い男の子は、もう、それだけでおかしくなってしまうかも」
「でも、自分はまだ若いし…」
のど元過ぎればなんとやらで、彼女があどけない顔でニコニコしていると、わたしには赤ちゃんのようです。しかし、ちゃんと注意するのも大人の務めと、できるだけコワい顔をしてみせます。
「そうじゃなくてね。あぶないんだ、残念ながら。今の日本は、本当に」
「は~い。わかりましたあ」と、ニッコリ。
賢い子ですし、笑い事では決してないのですが、どうも、父親のいつもの説教ぐらいにしか感じていないようです。
(次の出番の日は確かにミニスカートではありませんでした。ただ問題は、今度は素敵なホットパンツ姿で…)
他にも、通りすがりに足を触られたり、部屋を覗かれたこともあったようです。
結局、その彼女は親戚のおばさんの家に引っ越すことになったのでした。
そのようなわけで、今回の過剰とも言えるようなわたしの反応に、偶然居合わせた(!)お客さまたちも気がついて声をかけてくださいます。
「どうしたんですか」
黙っている、という選択肢もありましたが、年頃の娘さんもいる四人組の韓流ドラマ大好きチームなので事情を話してみました。
「それは、絶対、あぶない!」即座に衆議一決。「うちの離れのマンションに今晩は泊めます」とのご託宣がくだされました。
びっくりしたのはこちらの方です。
「いや、ありがたいのですが、そこまでしていただくのは…」
ちなみに、このグループに教会関係者は一人もおられません。ただ、ただ、有難いお話に痛み入りました。
そうこうするうちに、男性スタッフに連れられて蒼い顔をした彼女が帰ってきました。
「もう、ほんとうに信じられない。びっくりしました。うそみたい」
いつもはあまり人の悪口を言ったりしない明るいタイプの彼女の表情が別人のようです。
昔なら、その彼も、若い男の子の恋心で済まされたのかもしれませんが…。
「きょうはね、うちにいらっしゃい。韓国料理も沢山あるし」と、急遽、日本のオモニ(母)として名乗りを上げてくださった方がやさしく声をかけてくださいます。
「はい…、でも…」
まあ仕方がありません。これも神の恵み。ここは一つ甘えてしまいなさいと二人で深々と頭を下げて、ヤレヤレ、今夜もようやく一件落着、神に感謝です。
このお話には後日談があります。
その後、彼女は徴兵を終えたばかりの彼氏を韓国からすぐに日本に呼び寄せました。
近所のアパートに住まわせると急遽エポペのスタッフに推薦し、洗礼も受けさせて彼女専用の用心棒に育て上げたのです。
一緒に働いているのですから完璧なボディーガードです(笑)。
それから数年が経ち、また春がやってきました。
実はこの5月1日に、二人はめでたく釜山でご結婚と相成ります。
こうして見ると、災い転じて福と為すの典型と言えなくもありません。
取り合えず(?)、めでたし、めでたし…。