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「放蕩息子」のたとえの隠された意味とは…
2011-03-04-Fri  CATEGORY: キリスト教

 「放蕩息子(ほうとうむすこ)」のたとえが、どうしてもよくわからない、という友人を連れてきてくださったお客さまはミッションスクール出身です。

 「ここなら教えてもらえると思って…」と、会社の同僚の方たちもいっしょに、マスターがどのように答えるのか興味津々です。

 「あんな自分勝手な弟がどうして赦されるかわからないんでしょう」「お兄さんの気持ちの方が素直に思えるのでは」と尋ねてみます。

 見るからに真面目そうなお友だちの彼女が深く頷くのを確認してから、まずは他の方たちが、新約聖書にある「放蕩息子」のたとえを思い出せるかも尋ねてみました。

 どうやらご存知ない様子だったので、早回しでこの内容を説明することに。(皆さまはお手数ですがネット検索でのご確認をお願いしてよろしいでしょうか!)

 それから、大御所のJ.エレミアスの『イエスの譬え』をはじめとして、山のような解説書があることを説明してから、ネラン版の解説をすることにしました(出典明記は常に大切ですネ・笑)。

 「まず、本来の聖書には、小見出しがないことを知っていますか」そう質問すると、首を振る全員。

 「実は後から付けているんです。ですから『放蕩息子』のたとえもそうやって付けられました」(もちろん、JBSの見出しは正統です。念のため!)

 「ネラン神父によれば、このたとえの主題は、やはり父である神の愛ですが、もう一つの重要なポイントがあると言っています」

 「たとえば、タイトルを変えるとすると、どんなものがいいと思いますか」とわたし。

 「弟をゆるさない、ゆるせない兄、ですか」と連れてこられた彼女が即座に答えてくれます。

 (おお、さすが、なんと反応の早い。相当、聖書を読みこんでおられますね)

 「そうですね。この見出しのせいか、放蕩息子にばかり焦点が当たってしまっていますが、実のところイエスの話を聞いていた人たちは、そしていま読んでいるわたしたちは、どちらかというと兄の立場が多いはずです」

 「そもそもですが、もし、遺産の生前贈与なんて言い出したら、昔も今も、普通の親は怒りまくるでしょうし、使用人として働こうにも普通のうちはそんな働き場所すらないでしょうしね」

 「よっぽどの大金持ちでもない限り、『放蕩の限りを尽くして』財産を使い果たして帰ることすら難しいでしょうし」と話すと、若い娘さんたちが一斉にうなずきます。

 「よく考えてみると、当時、イエスの話を聞いていた人たち(大勢の群集)も、むしろ一般の人々で、毎日を懸命に働いている人たちの方が多かったはずです。ということは…」

 「兄の立場の方が普通なんだ!」と、みんなを連れてきてくださった彼女が最初に納得されたようです。

 「そういうわけですね」と答えると、このとき、ふっとネラン神父の聖書研究会での姿が自分の頭を過ぎりました。(本当にたくさんのことを教えていただきました。どうか長生きしてください…)

 「ここで忘れてはいけないのは、父は、『わたしのものは全部お前(兄)のものだ』と言っています。財産はすべてお兄さんのものですが、死んでいた弟が生き返ったのだから、死んだと思っていたのに帰ってきたんだから一緒に喜んでくれないか、というお話なのです」と続けました。

 「つまり、放蕩息子のような罪人への神の愛が示されているのと同時に、わたしたち自身も、そういう弟のような存在を赦し、受け入れられるかも問われている。さらに言うと、実は自分だって罪人ではないと言い切れるのか、弟のようなことが自分にも当てはまるような場合もあるのではないか、というテーマもあるのです」

 「ですから、キリスト教は、どんなに『放蕩の限り尽くしても』、これからどれほど罪を犯しても大丈夫、どんどん結構です、という考え方ではないんですよ」

 お友達も頷いてくれ、「この説明ならわかる気がします」と言ってくれました。

 「ただ、確かに人は弱い面もあり、罪を犯してしまうかもしれない。でも、神のもとに帰ってくるなら(必ずしも完全に回心していなくて、お父さんに食わせてもらうためだけであっても!)、父は喜んで(ここも重要!)、赦してくださる。それが神の愛なのです」

 「この愛を前にして、神の恵みはすべてあなたのものなのに、まだムカついている、カッカしている、あなた(読者)はいかがなものか、あなたはどうしますか、という問いかけがあるのです」

 「そして、興味深いことに、このたとえの終わり方は、普通のたとえ話のような断言・断定調ではなくて、父からの問いかけ、神がわたしたちに尋ねるような仕方で終わっているのです」

 「では、自宅に帰られたら聖書がありますか。すごい、皆さん持ってますね。では、帰ってから、是非、ルカの15章を読んでみてください。今度、感想を教えてくださいね」というお話で締めくくりました。

 飲み屋でも、授業でも、だらだらしたお話はご法度ですね。ましてや、今夜は四人でお話したいことも多いはず。
 あまりしつこくしないで、早々に、呼んでいただいた別のグループの方へと向かいました。(今度は質問ではなくお酒をごちそうしていただきました・笑)!

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